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ちょっと文脈が違うかもしれないけど、型における「守・破・離」と似たようなニュアンスがあるな、と、このコメントを見たときに思った。以下、山田奨治の「「型」の継承による創造行為」についての説明。
芸道では、師匠の「型」をわがものにすることが最大の課題になる。「型」をわがものにするとは、「型」が自らの主体的な動きになり、学習者に「似せよう」という気持ちがなくなる状態である。そこでは、「いき」や「間」といった感覚的な技術の体得が重要になってくる。
「型」のコピーを超えた「型」の習得が、芸道での修行の究極の目標である。各芸道では、それぞれに特色ある方法で「型」の伝承につとめてきた。生田(※「「わざ」から知る」)によれば、わざの習得プロセスにおけるものまねは、自分とおなじ世界にいる目上の者で、自らが「善いもの」として権威を認める人間をまねする「威光模倣」である。対象に「威光」を認めるという、模倣者の価値的なコミットメントがあってはじめて、ものまねの教育的な意義が生じる。つまり、「型」のコピーからはじまって「型」のコピーに行き着くゆえに、ものまねが教育的な意味を持っているのである。
芸道には「守・破・離」というものがある。「守」はひたすら「型」をまねる時期、「破」は「型」をわがものとした後に独自の工夫をする時期、「離」は「型」を離れて「型」を完成させる時期だといってよいだろう。「破」の段階で目指されるものが個性だともいえるが、それは現代風の「何でもあり」な個性ではなくて、「型」を崩すことなく加えられる微細な創造性である。それを指すことばに「風」がある。
歌舞伎でいうならば、役者が名跡を継ぐのは、先代の芸のコピーが相当なレベルに達したときである。「芸が先代に似ている」は、歌舞伎ではほめことばであり、先代が死んでもその芸が次代に再生されて、芸のいのちがつながっていることの証が、「似ている」ということになる。後継者は、最初は先代の芸を「守」るが、やがてそれを「破」り、「離」れて、自分の色というものが出てくる。それがその役者の芸「風」になる。
「風」は微細な創造性であるため、それを感得するには高度な感性が要求される。現代のわれわれは、「型」のコピーのなかにある芸道の「風」を感じ取る能力を、退化させてしまったような気がしてならない。(山田奨治, 『日本文化の模倣と創造―オリジナリティとは何か (角川選書) 』, 2002, p167-168)
2010-10-23
(via mcsgsym)