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"『ラピュタ』とは誰のどんな物語なのか。 私が考えるに、この映画で成長する人間は二人いる。この「二人」というのが物凄く重要なので、ちょっと覚えておいてほしい。 一人は言うまでもなくムスカだ。ラピュタの分家..."

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『ラピュタ』とは誰のどんな物語なのか。

私が考えるに、この映画で成長する人間は二人いる。この「二人」というのが物凄く重要なので、ちょっと覚えておいてほしい。

一人は言うまでもなくムスカだ。ラピュタの分家の末裔として生まれ、天にいます偉大な王国の復活を目論む。登場時には小娘に殴られて失神したりとお間抜けな一面を発揮していたが、タフに冒険を切り抜け、その野望を少しずつ達成していき、ついに目的を達成。王国のコクピットルームも、本家の娘も手に入れ、まさにこの世の絶頂。ザ・ワールド・イズ・マイン! ……というところで失脚してしまう。『ラピュタ』とはムスカの冒険譚であると同時に、彼が失敗し、学び、挑み、変化し、そして滅びるという物語である。デ・パルマの『スカーフェイス』に似ている。

ちょっと脱線。最近テレビで『ラピュタ』が放送されると、「バルス」の部分をTwitterで実況して盛り上がるという祭りが行われてるわけだけれども、私は初見時にあのシーンを見た時、強烈にムスカに感情移入したことを覚えている。「目が! 目が!」と叫びながら退場していく彼を見て、胸が傷んだことを鮮明に記憶しているのだ。単純にムスカの演技が同情を誘うようなものだったからかもしれないが、プロットの背後に広がる「ムスカが長年見続けていた夢が、無残に散ってしまう」という哀れな要素を子供なりに感じたこともあるのだろう。

さて話を戻す。『ラピュタ』の物語をリードしていくのはムスカの黒い夢で、主人公二人はそれに巻き込まれていくだけというのはここまで書いた。では最後「成長するもう一人の人物」とは誰か。

それは、ドーラだ。これが本エントリの核心である。この映画について考えてみると、ドーラという人物の役割が本当に大きいことに気づくのだ。

当初ドーラは悪人として登場する。シータをさらって飛行石を売っぱらおうと画策し、ラピュタの存在を知ってからはそこに眠る財宝を盗んでしまおうと計画する。金銭欲の強い、非常に利己的な人物像である。

だが、シータたちと一緒に冒険し、彼らの無垢な精神に触れることで徐々に変わっていく。少年少女に感情移入し、最後は彼らの無事を心から喜び、シータを抱きしめる。「カタギに肩入れしても尊敬はしてくれねえぜ」とエンジニアの爺さんにたしなめられていたが、最後はシータとパズーの心という、財宝よりも大切なものを得るのだ(まあ、ちゃっかり財宝もガメている辺りがドーラらしいが)。

ラピュタ崩壊後のラストシーン。あそこにドーラたちがいなかったらどうだっただろう。もう何もない。空しかない。なんか疲れちゃったねと頷き合って家に帰るくらいしか出来ない。あそこにドーラが登場し、ムスカのようなダークサイドへの転落ではない、老婆のポジティブな成長を見せることで、物語の後味が劇的に良くなっている。

『天空の城ラピュタ』とはムスカの黒い夢の物語だ。一人の男が野望に挑戦し、失敗して滅びるという悪夢のような話であって、パズーとシータはそれに巻き込まれて阻むだけである。私が子供の頃に感じたような後味の悪い話のまま終わってもおかしくはなかった。だが、その対岸にドーラの正の成長譚を配置することで、爽やかな後味を生むことに成功している。シータやパズーを一貫して勇敢な大人として描くこともできる。これら全てをスマートに成立させるプロット。これは巧いです。本当に巧い。こんな複雑な構造の話の上に、魅力的な世界観やキャラクターが乗っかってくるんだから、やっぱり天才宮崎の作品群においても突出した一本だと思うわけです。



- 『天空の城ラピュタ』とは誰のどんな物語か | 新刊書籍・新作映画を語る (via yshm)

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