今でこそ私鉄や地下鉄が集結している新宿西口だが、再開発が進んだのは1960年代後半になってから。実はその30年以上も前に、原型となる構想が策定されていた。
計画を主導したのは当時の内務省都市計画技師、近藤謙三郎氏。それはこんなプランだった。
「新宿駅付近広場及び街路計画」(1933年7月時点)。西口にある「新駅」とは国鉄新宿駅の駅舎を指す。鉄道路線を集結させる意図が明確に伝わってくる。越沢明「東京の都市計画」(岩波新書)より抜粋
まずは駅前に大面積の広場を整備する。駅北側の地上を走っていた西武電車(現・西武鉄道)を西武高速鉄道として地下化し、東京高速鉄道(現・東京メトロ)と直通運転させ、広場の地下に駅を整備する。そこには渋谷から延伸した東京横浜電鉄(現・東急電鉄)も合流する。地上では小田原急行(現・小田急電鉄)と京王電車(現・京王電鉄)が並び、東口にあった国鉄の駅舎を西口にも設置する。
建物の高さ規制も行った。それも上限ではなく「広場に面する区画では最低でも17m」と下限を設定したのだ。北海道大学大学院の越沢明教授は「それまで別々だった交通整備と都市計画を一体的に考え、駅前を立体的に構築した点で画期的でした」と解説する。
1930年代前半に立てた計画は実行に移され、1941年(昭和16年)には広場や街路の大部分が完成した。戦争で中断するが、戦後の新宿副都心計画へと受け継がれていく。
「新宿だけではなく、渋谷や池袋など戦後の東京の駅前整備はすべて近藤氏の構想に基づいています。東京の隠れた大恩人といってもいいでしょう」。越沢教授はその構想力を高く評価している。(河尻定)
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日経電子版に越澤教授コメントを掲載。東京不思議探検隊 1930年代に西口開発計画。 - 越澤明(越沢明)と都市政策、歴史・文化のまちづくり、日本再生
日経の記事の再引用だがオリジナルが読めないため。
(via ataru-mix)