機会をいただき、フューチャースクールに選定された小学校を訪問してきました。今回拝見したのは、6年生の社会科・算数・国語と4年生の算数の授業です。
以下、気付いた課題について報告します。
●インフラ周り
Windows7の立ち上がりが非常に遅い。約5分かかるため、45分授業の中で利用する場合、OSのたち上げを待つので5分失われる状況。
アプリケーションの立ち上がりはより遅い。校内に設置されたサーバにアクセスする場合も、クラウド上のサーバにアクセスする場合も、どちらも非常に遅い。画像、ドリルともに立ち上がりまで6分~8分かかり、子どもがいらいらして複数回クリックして複数アプリケーションを立ち上げることも多く、そのせいでより処理が遅くなっているように思われる。
電子黒板の音声が出ないことがしばしばあり(原因は不明)、計画していた授業が実施できず、急遽変更を余儀なくされる場合がある。
●コンテンツ
社会科の日本史の授業において、「教科書で読むだけでは明治時代がどういう時代であったのか感じることは難しい。明治時代の写真を見て、その時代の雰囲気を感じ、気付いたことをまとめよう」という目的で、「明治時代の写真」のデジタルコンテンツを活用する授業。子どもたちはそれぞれ自分のタブレットPC上で、自由に「明治時代の写真」を閲覧する。見た感じはよく集中し、興味を持って、次々に写真を開いてみている。が、「この写真のひとつ前にはどんな写真を見たか覚えている?」と聞くと、7人中7人が、「古い写真」「明治の写真」「さぁ・・・」というだけで、何を見ていたか記憶がない。私語がなかったり、操作をしていることが、本当の興味関心につながっていない。(電子黒板でひとつひとつ丁寧に見せながら、児童の気付きを発表させる形式のほうがかえって深まるのでは?あるいは、コピーした写真をマグネットで黒板に並べて俯瞰したほうが気付きやすいのでは?)
「デジタルランドセル」の算数の筆算のコンテンツには非常に問題がある。筆算における子どものつまずきの多くが、桁を揃えて書かない(雑に書く)、繰り上がりを忘れる、などにある。が、CAI形式の筆算ドリルでは、あらかじめ、入力の枠組みが決まっているため、「桁を揃えないで書くためのつまずき」が取り除かれてしまっている。これでは、デジタルドリルでは正しく計算できるのに、ノートやテストになると間違える子どもが続出することが懸念される。より多くの問題が、図形や文章題の立式では起こることが予想される。
算数ドリルに関して、デジタルと紙とどちらがよいかと子どもに尋ねたところ、「デジタルのほうがよい」との答え。理由を聞くと「書くのが面倒くさい」と「すぐに合っているかどうかがわかる」とのこと。書いたり、答え合わせをするのを面倒であることを理由としてデジタルを選ばせてよいのか疑問が残る。
電子黒板等を使った授業にどのようなメリットを感じるか、の質問に対して、「文字を読んで理解する力が年々落ちている。画像や動画を使うと、視覚に訴えるので、理解する子が増える」との説明があった。「しかし、大学の全授業がデジタルコンテンツ化するとは思えないので、生徒はどこかで『文章を読んで理解する』力をつけないといけないとが、それはどの段階で行うのか」との質問をすると、答えがなかった。このままでは、小中においては、画像動画中心で理解させ、高校に入って突然文章で理解しなければならなくなるため、中高ギャップが深まる可能性が高い。
●授業の質が向上しているかどうか
協働・協調の場面が増えているように見えない。
ノートに考えをまとめる・プリントを貼る・図を書く、といった活動が縮減しているように見えることが気になる。(計算・黒板やデジタルコンテンツの内容を写す活動はある。
機器のセッティングやアプリケーションの立ち上げに時間がかかり、授業時間が正味10分ほど減っていることで授業内容が薄くなっている。
機器のセッティングやアプリケーションの立ち上げなどで授業がしばしば切断され、集中力が途切れてしまい、授業の目標がわかりにくくなっている。
用意されている学習アプリによって強化される可能性がある学力が、計算力・パターン認識力などに偏っており、21世紀に必要な学力に結びつく道筋が見えないこと。
●今後、必要だと思われること
ICTを使った授業だから先進的でよい、ということではなく、学力の定着・応用力等にどのように結び付くかの道筋が見えなければいけない。
ICTの観点ではなく、教科の観点から授業評価を行うべき。
特別な研究授業ではなく、普段の授業を見る必要がある。安易にデジタルコンテンツに児童のお守をさせていないか?(ゲーム性のあるドリルに頼っていないか?)本当に協働・協調の場面が増えているか?
デジタルを与えると、とりあえず子どもの私語が減り、大人しくなることは事実。しかし、それが学力に結びつくとは思えない。デジタルに頼ることで、教師の力量が落ちることが非常に心配。一度落ちた力量は、取り戻すのが非常に難しい。
”-
新井紀子さんのフューチャー・スクール見聞録。なるほど、電子黒板、電子教科書の問題点がほとんど網羅されているかも。
まあ、OSやアプリの起動が遅い等のインフラ周りや、コンテンツの質については、まだ導入したばかりだし、実験期間中だから充実していないのは当然なんだけれど、それより、コイツラを導入して何を達成させようと考えているのだろうね?目標が授業中の私語を無くすということなら、その効果はあるのはわかるのだが。
学者をたくさん育てたいの?PISAが目指すグローバルなリテラシーを養成したいの?昔のソニーや今のAppleのような時代をあっと言わせる製品を作り上げるエンジニアをたくさん育てたいの?それとも文句を言わない社畜のサラリーマンを一杯作りたいの?
将来どういう人的資本を蓄積したかを選ばなきゃ、具体的な方法が検討できないし、その方法を実現する実装が出てくるわけないよ。そして選ぶということは、選ばないものはできるかぎり顧みないということなんだよ。
そして、あまりに人が多すぎて色んな人の利害が絡みすぎて選べないんだったら、絡まないレベルまで行政の単位を小さくしたほうがいい。シンガポールや、ドイツの州レベルくらいまで。例えば東京を中心とする首都州は法律家と理工系基礎研究者にフォーカスするとか、名古屋静岡を中心とする東海州はエンジニアの養成に重点配分するとか。そうすれば、その地方に特色がでるし、人的資本の蓄積が進んで産業集積の効果が大きくなるよね。ただし、あまりパターナリステックに人的資本の方向を決めるというのも、問題は大きいのは事実だし、なにせ将来は予測不可能というのも理解はできる。
だからといって、ここで報告されているような、インフラありきのフューチャースクールよりは全然ましだよ。そもそもフューチャースクールの「フューチャー」って、教育インフラや教育ツールのフューチャーを目指すものなの?それは違うでしょ。学校や教育のフューチャーじゃなきゃだめでしょ?ということは、将来どういう人材が欲しいかのイメージがあって、それを実現するためにインフラやツールを選択しなきゃダメなのじゃないか?そのひとつの選択肢として、電子教科書が必要なら利用する、というなら分かるんだがね。
(via kashino)「はい後ろにプリント回してー」というのが失われてゆくのか。
(via tscp)